イメージというとすぐに「ビジュアル」を思うけれど、想像の産物がすべてイメージであるとすれば、別にビジュアルでなくとも、ここに書いているような文章だって「イメージ」だ。
つまり、絵を描いたり、文字で表したり、ということは、自分の中にあるもやもやっとした何かを自分の外に見えるようにすることだ。イメージが外にたくさん溢れれば、中でわざわざイメージを作る=想像することを行わなくても、多分自分のイメージするものはこれだ、と外にイメージがあると思い出す。結果「想像する」ということも外在化するのではないか。そう考えると、イメージを外在化させることは「想像することを外在化させる」という機能をそもそも持っているのかもしれない。つまり人が自分自身の中で「想像する」ことをどんどん行わなくなってゆく。
マスメディアが劣化しているなんて話も、装置を通してイメージを外に作るのがマスメディアだと大雑把に捉えれば、自分自身がそもそも「中で想像する機能」を弱める性質を持っているのだから、劣化して当然と言える。劣化したのかどうかの判断や、劣化の速度については脇においておいて。
仕事でも「見える化」なんてことが喧伝されて、暗黙知はダメだ、という論調になる。見えないものを見えるようにしようということなので、これもイメージの外在化のこころみ。データビジュアライゼーションも、そもそもビッグデータを見て何か想像しろというのには無理はあるものの、やはりイメージを外に作っている。
AIはどこに行きつくかはこれからだけど、(現在の「AI」は領域が違うとはいえ)例えばマトリックスなんかで描かれているAIであれば、明らかに人の中にあった『想像する」力が人間の外で機能している。AIというのは、想像する機能を人の外部に作ろうという試みと言えるし、宮﨑駿が川上氏に対して怒ったという件は、内在しているイメージを現前させる人が、そもそものイメージが外にあっていいじゃないかというところで試行錯誤している試みに対して、それは違うんじゃないかという思いを持った、というような図式なんじゃなかろうかと。