第48回 書く(2000年1月)

【書く】 (筆などで)線を引く。また、絵や図をえがく。文字をしるす。著作する。

 作文。学校で苦痛に感じていたのではないだろうか。文を作るという行為、改まって考えるとなにやらかしこまってしまい小難しいもののように思えてくるが、総かしこまらないものであればだれだって普段何か「書く」という行為を行っているだろう。仕事上の企画書や報告書などという公的なものでなくても、携帯端末やコンピュータでのメールのやり取りや、ちょっとしたメモ的な手紙などというものなら日常的に書いているものである。それでもあらたまって「書かなくてはいけない」という状況に陥るとどうしても「書く」ことがとても難しいことのように思えてくる。

 「書く」とは「掻く」に通じる。堅いもので柔らかいものを「掻いて」跡を残す、そのことによって記録を行う行為のことを「書く」という。猫が壁を掻いている動作と人が文章を書くという動作は大元は同じである、という発想が日本語の「かく」という言葉には含まれている。この原義に従って考えるとコンピュータ上での文章作成は純粋に書くという行為であるとは言えないようだ。もちろん今日「書く」という言葉には作文としての意味もあるのでコンピュータ上の文章作成が「書く」ことではない、という訳ではない。作文という意味で「書く」がも散られるというのはそもそも文字が単独で用いられることは少なく、少なくとも意味伝達など記録として用いられてきたことによるだろう。単に「しるす」という意味から派生として「作文」するという意味が生まれている。では何故「書く」事が難しいのだろう。「書く」という時の一番の戸惑いは「どう書くか」ではなく「何を書くか」ということにある。そして「何を書けばいいのか分からない」というのは多くの場合、書くべき内容が自分の中で整理できていないということなのだ。頭の中に漠然とあるということでは文章にすることは出来ない。もちろん化たることもできない。それを「ここに書くんだ」という形で取り出すことができる、そのことは書くということ以前に自らの頭の中を整理する行為でしか内のではないだろうか。いったいだれに向かって書く(語る)かということも含め、何をどうまとめるか、整理するというのはそのような頭の働きでもある。
 ここにコンピュータという新しい掻き方を要求する機械が存在する。手書というものが頭の中に浮かぶフレーズをそのまま思った通りに記述できるのに対して、日本語ワープロというコンピュータは平仮名などでの表記を適切な漢字に変換するという過程が入る。例えば手書が漢字の使い分けを正格に知らねば書くことすらままならなかったのに対して、ワープロの場合はいくつもの「使えそうな」漢字を見ながらそこからどれを使うか選べる、という違いがある。しかもそれは正確に憶えている必要はないのだ。「示偏」が「ネ」となっているのかそれに一つ点が打たれたものなのか、ということを知らなくてもワープロで「かみ」と入植すれば少なくとも「神」という漢字に行き着くことはできる。示偏と衣偏との違いに悩まなくてよいということはひとまとまりの文章を作成するのにはストレスを多いに減らしてくれる。しかしそのことが逆に頭の中の情報を整理する能力を鈍らせているように思える。たくさんの漢字というものをどう憶えてゆくか、ということはt何順に記憶能力だけではなく情報の整理能力も鍛えていると言えるのではないだろうか。
 さまざまに集めた自分なりの情報を出力する方法の一つとしての「書く」という行為。キーボードを「叩き」ながらなのか、紙の上を「掻き」ながらなのか、いずれの方法にしても自らの頭の訓練は必須のようだ。多いに戒めとすべきことである。

2000年1月 Virtual Eye


Virtual Eyeは、Macのユーザーズクラブ(当時)からISPとなっていったLink Clubの会員向けNews Letterに連載していたエッセイです。
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