想像力について

イメージというとすぐに「ビジュアル」を思うけれど、想像の産物がすべてイメージであるとすれば、別にビジュアルでなくとも、ここに書いているような文章だって「イメージ」だ。

つまり、絵を描いたり、文字で表したり、ということは、自分の中にあるもやもやっとした何かを自分の外に見えるようにすることだ。イメージが外にたくさん溢れれば、中でわざわざイメージを作る=想像することを行わなくても、多分自分のイメージするものはこれだ、と外にイメージがあると思い出す。結果「想像する」ということも外在化するのではないか。そう考えると、イメージを外在化させることは「想像することを外在化させる」という機能をそもそも持っているのかもしれない。つまり人が自分自身の中で「想像する」ことをどんどん行わなくなってゆく。

マスメディアが劣化しているなんて話も、装置を通してイメージを外に作るのがマスメディアだと大雑把に捉えれば、自分自身がそもそも「中で想像する機能」を弱める性質を持っているのだから、劣化して当然と言える。劣化したのかどうかの判断や、劣化の速度については脇においておいて。

仕事でも「見える化」なんてことが喧伝されて、暗黙知はダメだ、という論調になる。見えないものを見えるようにしようということなので、これもイメージの外在化のこころみ。データビジュアライゼーションも、そもそもビッグデータを見て何か想像しろというのには無理はあるものの、やはりイメージを外に作っている。

AIはどこに行きつくかはこれからだけど、(現在の「AI」は領域が違うとはいえ)例えばマトリックスなんかで描かれているAIであれば、明らかに人の中にあった『想像する」力が人間の外で機能している。AIというのは、想像する機能を人の外部に作ろうという試みと言えるし、宮﨑駿が川上氏に対して怒ったという件は、内在しているイメージを現前させる人が、そもそものイメージが外にあっていいじゃないかというところで試行錯誤している試みに対して、それは違うんじゃないかという思いを持った、というような図式なんじゃなかろうかと。

スパムからステップメールについて考える

タイトル: 卑怯です
内容: どうでもいいメールをしたつもりは無いんですけど…このままずっと無視ですか?

って明らかにスパムなアドレスからのメールが来たんですが、「このままずっと無視ですか?」と言われたので、無視せずに記事にしてみました。
約2時間ごとに一応ちゃんと誰かに連絡とっている態で送られてきていて、だんだん返信がないのを咎める内容に変化しているので、どこかでアドレス間違ってますよって返信されることを期待しているのかな?

丁度クライアントへのレポートに、メルマガは単発を送って終わりじゃなくて、開封者への2手目3手目考えないと、って内容書いた後に見たスパムだったので、「単発になっていない」メールという点で関心してしまった。このスパムも繰り返し送ることで注目させ、Replyを…と手法だけとり出せば「メール送る際にちゃんと考えようね」ってことはとにかくもクリアしている(というかスパムのほうが「ちゃんと考える」については相当上を行っているのかもしれないけれど)。

MAを導入するまでもなく、Mail配信ツールはステップメール送信機能は実装されていることが多くなっているので、開封者、メール内リンククリック者に対して次のアクションをどうする、というようなことを想定して、ある行動に対して次にどのような手を打つかということが「シナリオ」として準備できるようになってきている。一昔前はとにかく大量投下で、その中でのコンバージョン率をどうするかという単純な(難しいけど)話だったのが、配信後の行動パターンにあわせて策を細分化するように変わってきている。細やかなことができるようになるから、当然優良コンバージョンを得られるよ、という目論見で、たしかに「細やかな」ことがちゃんとできれば優良コンバージョンは増えるのだろう。

ただ「細やかな」というのはなかなか曲者なんじゃないか。メールなので、せいぜい「開封した|しない」「クリックした|しない」だけかもしれないが、コンテンツマーケティングサイトのメルマガで、複数記事の紹介であれば「クリックした|しない」は「○○をクリックした|しない」に分割される。メール内の記事数nに対して、「クリックした|しない」がnあるのだから、本当に「細やかに」しようと思えば、記事Aと記事Bをクリックした、というような組み合わせも考慮できるケースだってあるだろう。この場合に記事Aをクリックした場合のシナリオ、記事Bをクリックした場合のシナリオの両方を実行だと、両方が同じようなアクションでは、二重のアクションとなってしまって逆に鬱陶しいと思われかねない。もちろん実際の想定で、数学的にすべてのパターンを用意しないといけないということはないだろうけれど、記事数nに対して、クリックした数r(0<=r<=n)の組み合わせが何通りあるか、ということを想定するとなるとなかなかに面倒。厳密にやろうとするのは間違いなく「過剰なこと」だと思うのだけど、これが過剰であるという根拠はどこにもない。逆に過剰になるのであれば、メールに記載した記事に戻って、記事Aと記事Bとの2つが本当に両方必要なんだろうか、というところに立ち戻る必要があるのかもしれない。 細やかさはどこまで、という問題はあるものの、これは受信した側がどのように反応するのか、という観点で考えましょうということに過ぎない。これはコンテンツマーケティングの話を読むと当たり前のように書かれていることだし「お客側の課題を発見して解決手法を提供すること」はマーケティングのなすべきことなので、間違いではないのだけど「お客側の課題を発見するためにはお客側のことを知らないといけない」という観点を欠いているのに情報発信をしようとする、とかメールを送るとか、そういうことは起こっていないだろうか。ペルソナ、とか、カスタマージャーニーとか言われるようになったのは「お客を知るため」のフレームワークの一種ということなんだろうけれど、それは売り側が発信することに対してどう反応するか、という部分(とその周辺)にしかフォーカスできないように思われる。 人のすべてを理解することなんてできはしないのだけど、自分が送ろうとしている情報が、はたして受信側に必要か否かという点については確信をもって応えられる送り手なんていないんじゃないか(必要であると確信をもって信じている、という人はいるだろうけれど)。割り切りなさいよということかもしれないけれど、「分かるはずないけど分かろうとしているんだ」という位の意識は忘れてはいけないように思う。

悪いことする人は、同じ悪さを行うことを人には求めない

ちょっと思いついたのでメモ書き。きがむけば深堀して考えてみる。

悪いことする人は、同じ悪さを行うことを人には求めない。
かたや正義を主張する人は、同じ正義を人に求める。正義とは皆が遵守しないと正しさを発揮しないから、正義そのものが押し付けるものという性質を持っているのかもしれない。