山本七平『「知恵」の発見』

山本七平『「知恵」の発見』読了。この本自体は先月の刊だけど、掲載されているのは1977年の「山本七平の知恵」の再編なので、山本七平55歳のころの文章だろうか。

「これは人間の、ある時代、ある場所、ある文化の空想力の限界を示している学問だからである。つまり、人間の空想は、絶対自由ではなく、ものすごく限界があるものだということがわかるのである。
人間は自分で空想すらできないことを、実現できるはずはない。(中略)この空想の限界が逆に、現実の世界を規制しているわけである。」
「お化けと幽霊とは、基本的に違っている。非人道的で、いきなり通行人に飛びついたり、ムチャクチャな事をするのがお化けなのだそうである。
幽霊というのは、あくまでも正義公平を求め、それを回復するもので、実に立派なものである。それが日本の伝統的な発想である。(中略)
フランクルの「夜と切り」を呼んでみても、ガスか窓の前にいえてさえ、オレが化けて出てやる、怨霊となってヒトラーに飛びついてやるといった発想がない。不思議なくらい、全然ない。これが、われわれから見て、わからないところである。
フランクルの場合、自分が苦しんだだけ自分の母に楽を挿してくれ、自分の命が縮んだだけ自分の母を長生きさせてくれという契約を神と結んで、一種の安心立命を得るというところがあるが、あれではわれわれは安心立命は得られない。
われわれは、死んだって、化けて出てヒトラーをのろってやるというふうにならないと、とても安心できない」
「兄のカインが弟のアベルを殺した、人類最初の犯罪事例としてよく出てくる話だが、これも日本流に考えれば、アベルが怨霊になってカインに取りつかなければいけないわけである。しかしそうはならない。(中略)
まことにおかしいけれども、手っ取り早く直接本人のところに怨霊が行かないで、絶対的な正義のようなものに対して叫び声をあげるという形になる」
と空想の限界の話から、神という絶対正義の存在、神との1対1の契約があり、その内容が同じだから人間は平等である(ヨーロッパ)、お互いに人間だから平等である(日本)というような比較はとても面白い。空想が現実を規定するというのはなるほど確かにそうだ。

前半のこういった話や、中盤「日本では「自由」とは保守化することを意味する」「老害とは、若者が老人化したものであって、老人がもっているものではない」「各論をすべてならべて総論は自分で出せ」等々なかなか面白いのだが、後半の説得の技法的な内容等はやや単純な「説得術をもたぬ日本人批判」になっている感があって残念(純粋に聖書にまなぶ説得・演説技法というような見方をすれば面白いことは面白いのだが)。

教訓めいた話が多いのとか、日本は九割が稲作従事者だった、というヘブライに対する精緻にしては日本に対して雑な感じとかは少々読んでてアレなのだけど、読後感としては、旧約聖書読み直してみようかしら、でありました。

「明喩」の考察その2、暗喩との比較もしくは暗喩の考察。

『暗喩だと抽象を引きずるのに、田原作で言うと「胃に花」ね、「胃に花のような」と言った瞬間、賑やかで明るい動的な「咲く」がイメージされてきて、ただ「花」と言うのとだいぶちがったイメージを導き出しはしないか。』

思っていたよりも暗喩との比較でこれを説明するのが難しいなぁ、ということで時間がかかってしまいました。

その1で述べたように、明喩は、たとえられている何かの一部の性質の名付けとして比喩が現れる。つまり、比喩に現れるような性質が存在することがはまりさえすれば成り立ち得る。「X(のような)←X’」という形である。したがって、「X’」の存在が必須となる。
対して、暗喩は必ずしも「X’」が明記されている必要はない。「花」だけ言えば、これは暗喩として成り立ち得る(もちろん「花」そのものがそこに存在していない前提で)。つまり「X→X’」という構造。「X’(の中にある性質)の発見」が先立つのではなく、「X」の発見が先立つ。だからX’が受け取り手の意識に現れた時に、それが『「X」としか名付けえないなにものか』として十分に説得力のあるものでなくてはならない。

「胃に花やピンクの色のハーブティ」を比喩構造だけ注目すると、「(胃に)X(や)X’」となる。「花」としか名付けえない「ピンク色のハーブティ」。これが成り立つかどうか。ここでは「花」と名付けてしまっているがゆえに「花」の何らかの性質、動作、状態といったものに限定することは出来ない。「花」と「ピンク色のハーブティ」が完全一致していないといけない。受手に解釈の幅はいっさい許されない。許されないがゆえに完全一致に納得できなければ比喩として受け入れにくい。
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「ハーブティー胃に赤い薔薇咲きました」。こちらは一見すると「X’(胃に)X」と見えるが、Xが動詞を含み、X’が名詞。したがって、「X’」側に「咲きました」に相当する何者か(飲む、飲むことによって、等々)が隠れている、ということになる。つまり「赤い薔薇が咲きました」としか言い得ないものは「ハーブティ」ではなく「ハーブティ+α」。「α」がある分、受手に解釈の幅が許される。さらに幅を適度に限定するために「ハーブティ」が効いている。X→X’を作りながら、X’が振幅と限定とをもっているので、「Xとしか言い得ないもの」を補完する役割を果たしている。
「ハーブティー胃に赤い花さきました」。構造は全く同じ。補完する部分が「花」なのか「薔薇」なのかの違いは、粒度の違いと言える。赤い花であれば、牡丹でも椿でも、なんでもよい、ということになる。だから「Xにあるαの幅」に対して、「X’にあるβという幅」という存在。
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一方、「胃に花のようなピンク色のハーブティ」(俳句の体は崩していますが)と明喩で表現した場合は、繰り返しになるが、「ピンク色のハーブティ」(のたとえば飲んだ時の心境)は「花としかいいようがないよね」という意識の向きになる。『ピンク色のハーブティ」のある性質を述べているという形になるから、そこには常に幅がある。だから暗喩に比べて、受手が花が『咲く』とか「鮮やかな」花であるとかの動作や状態を加える余地が常にある。

花のハーブティと、花のようなハーブティとは根本的に発想の向きが異なる。

明喩についての考察・その1

明喩というのは、「花のような○○」という時、花からある特性を取り出して、その特性が「○○」にも当てはまるでしょ、ね、という使い方をする、と説明されます。
なんだけど、実はその特性が「○○」にある、ということがわからないと、比喩としての体を成さない。だから見た目では分かりやすいようで、隠喩に比べて、理解不能な比喩になりやすいともいえる。「花のような人生」は通じるかもしれないけれど「花のような坊主頭」はだいぶ引っかかる。
この時、受け取り手は「花」のさまざまな性質から「人生」だの「坊主頭」に通じるなにかを見つけようとしているのではなく、「人生」「坊主頭」から「花」に通じるなにかを見つけているはず。だから「人生」「坊主頭」に「花」に通じる特性がある、ということを受け取り手が理解できないと、なにいってんの、という事にしかならない。

つまり「花」の何らかの性質があって、それが「○○」にもあるでしょ、という気付きを求めているようで、実際は逆に「○○」の中のある性質は「花」ということが出来るのよ、という提案を行っているということなのだ。したがって、「○○のような××」の○○は抽象的だろうが具体的だろうが構わない。××のある面を名付け得るものでさえあればいい。「××のある面」というのは、受け取り手にしてみれば必ず具体性を持っている。どんなにぼんやりしているものであっても、「ある性質」だけに絞り込まなくてはいけないのだから。

「ハーブティー胃に花の咲く如き」であれば如きの後ろに隠れているであろう「心持ち」「気分」というようなものを「花が咲く」と同じものとして表現できるでしょ、と提案している。「心持ち、気分」の中にある生々しい(=具体的な)ある側面は「花が咲く」と言えるのよ、と提案。花が咲くということがどういうことか、という抽象化はいっさいなく、「花が咲く」←「心持ち」という絞り込みが行われているだけで、「花が咲く」→(「花が咲く」の意味することとは、、という抽象化)→「心持ち」というベクトルではない。

最近のAppleサイトっぽい演出を加えるJS

コードをよんでみないと、だけど、htmlのタグ中にキーワード的に操作を埋め込めるので、お手軽かもしれない。が、お手軽な分、デフォルトから外れるととても汚らしいことになるかもしれない。どこかでサンプル作成してみて確認ですな。
http://julianlloyd.me/scrollreveal/
http://coliss.com/articles/build-websites/operation/javascript/js-scrollreveal.html

エンゲージ

本日のほぼ日手帳の一言欄。

1.「それはおもしろいか」 Is it Interesting?
2.「それは意味を成しているか」Is it Relevant?
3.「それは夢中になれるか」Is it Engaging?
 もしくは
 「それに夢中になっている人はいるか」Is the person Engaged?
4.「人々がエンパワーされているか」Are the people Empowered?
私はこの4つが満たされていることが、21世紀型の人々の姿勢であると思っています。

1〜3というのはそれなりにいろいろ有ると思うのだけど、それに4の条件を加えるというのはなかなか難しいのではないかと思う。円パワーされているか、というのは日本語にしにくいけれど、それに触発されて何かを得ているか、というようなところだろうか。

仕事初め

明けましておめでとうございます。
今日から仕事初め。実際には昨日からちょっとずつはじめていますが。昨日はほぼ塾のプリント作成のみ、のんびりと切り貼り手作業。本格的には今日からです。
今年は厄年(まだ厄払いしていない)。娘は七五三(数えでいくべきなので、本当は昨年なのですが、前歯の状況がすっきりしなかったのでお祝いは一年遅らせることに)。二年連続種まきのような年が続いたので今年は芽を伸ばす活動をしていきたいと思います。

「大人のマーケティング」

自分の著書ではないのだけど、気分的には共著位。縁あって、畑井貴晶さんの「大人のマーケティング」書籍化プロジェクトで編集、用語集作成をお手伝い。用語集はお手伝いというか僕が書きましたw。

もともとはFacebook上で連載されていたコラムと、それに付けられたコメントを編集してコメント応酬の臨場感をできる限り書籍に載せたい、という試みをおこなったもの。
書籍化にあたって、新たに用語解説を追加したのですが、マーケティング用語ではないところに目をつけて解説するという人を食ったことをやっています。

なにはともあれご一読ください。アマゾンで現在予約受付中です。

マルチステート覚書

ADPS勉強ちう。Adobe CCのライセンスなのでSingle EditionでしかFolio Producerにアクセスしていないので、マルチFolioは今一つ理解していないような。

・マルチステートで画面の切り替えを行う場合、各ステート内に配置したテキストが1024×768で作成したものをRetina環境に持ってゆくとジャギてしまう場合、Folio OverlaysでPDF書き出し方式をベクトルにするのを忘れている。ついでに容量にも影響するので、ベクトルにしておいたほうが無難か。
・folio overlaysの設定はFade In/Outの速度調整等、触っている感覚に影響する設定もあるので、デフォルトで放っておかず調整すべきか。

「アイデンティティ」について

アイデンティティという言葉が、特殊な用語ではなく使われるようになったのはいつからだろう。ケータイ、Internetで個人認証が当たり前になって「ID」という略語に至っては、「アイデンティティの略である」ということすら知らずに「アイディー」と言っている向きもあるかもしれない。ともかく現在ではすっかり日常語。「あなたのアイデンティティはなんですか?」という質問をして「アイデンティティってなんですか?」とは(大人に質問する分には多分)訊き返されることはないと思う。もちろん、「わたしのアイデンティティってなんだと思います?」という返しはあり得るだろうけど。

「アイデンティティ」が必要となるのは、第一に他者との関係において。孤島に一人暮らし、であれば島の中でアイデンティティを意識する必要はない。孤島の外から見れば「孤島に一人暮らしの人」というアイデンティティは生じる。が、これは孤島の外との関係にで生じたもの。

関係のあり方というのは色々あるわけだけど「見る・見られる」というのも一つの関係のあり方だろう。そして、アイデンティティは「見ること」と「見られること」との両方でおそらく形成される。ただ、形成する際の「見る・見られる」の比率は5:5ではない。「見る」が多い人は他の人との異同によって自分を自覚するだろうし、「見られる」が多い人は差異ではなく「演出された自分」「とにかくこんな自分」というような自己演出の感覚がによって自分を自覚する。極端な言い方をすれば相対化するか絶対化するか、といえるかもしれない。見ることで相対化。見られることで絶対化。「どう見られているか」ではなくて、「こう見られている筈」という観点に立つので、絶対化する。見られる側が絶対化すると「お天道さまに申し訳ない」「壁に目あり障子に耳あり」というような感覚は薄まる。見られているけど、どう見られているかは気にならず「こう見られるべき自分」をどんどん作ってゆく。ついたてのなかの「ぼっち」というだけでなく、外食すれば食事の写真をFBなりTwitterにのせたり、Foursquareでチェックインをこまめにやったり。「見られる側のアイデンティティ」では、「誰かに見てもらいたい」からそんなことをするのではなくて、「見られた時にそんなことをしている(た)自分」を演出している。
だから、見る側のアイデンティティが強い人にくらべて自分の投稿が「いいね」されるかどうか、ということはあまり気にならない。見る側のアイデンティティが強いと「他の人と違ったこういうことを投稿した」と、「いいね!」されるかどうかがすごく気になる。どちらも自意識なんだけど、そのベクトルが違う。どちらもオタク化するけど、オタクっぽさをファッションに出来る(見られる側)か、出来ないか(見る側)とか、そんな違いは生まれてきそう。
「見られる側のアイデンティティ」は、実際にどう見られているか気にしない。だから他の人をイメージさえあれば「実際に」見なくてもよい。チャットの向こうにいようが目の前にいようが同じになる。対して「見る側のアイデンティティ」では、自分が実際にどう見られているかがとても気になってしまう。だからビデオや写真にのこされた自分を見るのが嫌い。
そういえば学生の頃、よく深夜にドライブにいっていたT君とは、運転時の傾向がまるで逆だった。彼は後ろに後続車が居てくれたほうが安心する(下手な事故をしていない証拠になる)タイプだが、僕は行列の先頭車両になるのがいまだに嫌い。ノロノロ走っているわけでも、変な運転をしているわけでもないけど、なにやら後ろに迷惑をかけているような気がしてきて落ち着かない。できれば普通に走れるくらいで別の車の後ろにくっついていたほうが気楽。

一時の「自分探し」のような流行りが断続的に続いて「見られる側のアイデンティティ」が強まってゆくのかな、と。

 

https://www.facebook.com/takaaki.hatai/posts/653726404646663

FBでシェアするつもりが、リンクシェアになってしまって、本文をシェア出来なかったので、コメント欄に書き込んだもの。